第4回吃音勉強会「吃音者のためのからだとことばのレッスン勉強会」

【報告】

 8月22日(土)、第4回勉強会「吃音者のための、からだとことばのレッスン勉強会」を開催しました。前半は竹内敏晴氏の竹内レッスンの思想を学び、後半は三好哲司氏にご指導を頂き、実技を行ないました。(國分)

 

【感想】

 前半は担当の山田さんによる、竹内敏晴氏の思想の解説でした。

 竹内敏晴氏は元々たいへんな難聴でほとんど耳の聞こえない障害があり、その後しだいに回復していく中で、ことばというものと自分なりに向き合い・格闘し、試行錯誤をしながら竹内レッスンという独自の思想を生み出していかれたようです。
 メルロ=ポンティの身体的な実存主義の思想が竹内氏の言葉に対する思想の元にありますが、ことばというものは本来、自らと世界とが一体となり、また、自らと他者とが一体となり、そのようなダイナミックな関わりあいの働きのなかで生まれていく運動のようなものです。
 後半の三好哲司氏のからだとことばのレッスンを体験しながら感じましたが、身体を動かしながら、他者と一緒に何か1つのことをやるときに出てくることばというものは、川の流れのように自然なもので一瞬一瞬変化しながら動いていくもの、まさに生きているものだと感じました。
 実技では二人一組になり、相手が床に寝転がって、もう片方の人が相手の足を揺らしたり、腕を揺らしたりするワークから始まりました。
 相手に身体をゆだねていると、足を相手に揺らされても、ただ気持ちいいだけで、リラックスしていくのですが、相手に身体をゆだねていないと、足を相手に揺らされていることに抵抗しようと身構えてしまい、足が緊張し、身体が固まり、揺らしている人も揺らされている人も疲れてしまいます。
 また二人一組で「通りゃんせ」の歌を歌いながら、かけあいをするワークもありました。
 通りゃんせ通りゃんせ」に始まり、
 「ここはどこの細道じゃ」と言えば、
 相手が、
 「天神様の細道じゃ」と返すわけですが、
 ただ歌うだけでなしに、
 きちんと情景が目に浮かんでいないと、
 なんの心もこもらないただのお経のような歌になってしまいます。
 「ちょっと通してくだしゃんせ」と言う人に
 「御用のない者通しゃせぬ」と拒む側の、
 お互いの心境や置かれた状況をきちんと理解しないと、
 生きたことばのやりとりができず、
 歌はただの音として空回りするだけでした。

 何度かやるうちに歌の中の人物の心境がからだでもって感じられてくると、歌も生きたことばの流れとして相手との間で交わされていくものだと実感できるようになっていきました。(國分)