【報告】
5月8日に、第14回吃音勉強会を開催しました。
今回は、昨年9月の勉強会に引き続き、『バリアフリー・コンフリクト』をテーマに勉強会を開催しました。勉強会初参加の方も含め、5人の方が参加くださいました。
参加者の皆様、ありがとうございました。
前回の9月の勉強会では、『バリアフリー・コンフリクト』(中邑賢龍・福島智編著、東京大学出版会)の第1章(バリアフリーは何をもたらしたか?「能力」の補償・代替・増強のいま)と、第13章(「回復」と「代償」のあいだ)の一部を、内容について対話しながら参加者で読み進めるという勉強会を行いました。
今回の勉強会でも、前回と同様に本『バリアフリー・コンフリクト』(中邑賢龍・福島智編著、東京大学出版会)を、対話しながら読み進める勉強会にする予定でした。しかし、「ただ、ずっと文字ばかり読みながら話しているのも疲れるのではないか」と思い、今回は、動画鑑賞の時間を設けようと思いました。
そこで、今回は、本の内容に入る前に、2009年にNHKで放送された『爆笑問題のニッポンの教養 File74 私は ここに いる
福島智(障害学)』を見て、内容について、参加者で対話をしてみました。この動画は、『バリアフリー・コンフリクト』の編著者でもある福島智先生がゲストとして登場しているものです。動画の前半では、福島先生の盲ろうという障害や福島先生の歩みについての紹介があり、後半部分では、『障害とは何か?』というテーマで、爆笑問題と福島先生とが話し合いをしていました。
障害について考える際に、?何が障害で何が障害ではないかの線引きがはっきりしないということ、?社会的に、障害者とされた人に対して、どのような取り組みを行うかということ、?個別の人生で、障害を持ちながら生きることの意味について考えること。この3つのフィールドに分け、さらに、その関係性を考えていくのが重要だ、ということが動画の後半では述べられていました。
この動画を全員で鑑賞した後、①動画についての感想・印象に思った箇所、と、②動画の中で、福島先生が爆笑問題に投げていた質問『障害者ってどういう人のことだと思いますか?』『障害って何だと思いますか?』、というテーマで、対話を行いました。
その後、休憩をはさみ、いよいよ、『バリアフリー・コンフリクト』の読書会に入りました。当初は、『インターミッション 「障害者」って誰?』、『第3章 人工内耳によって「ろう文化」はなくなるか?』、『第9章 聴覚障害者のアイデンティティ・トラブル』の3つの章を読み進める予定でしたが、思ったよりも早く時間が過ぎてしまい、最初の章『インターミッション 「障害者」って誰?』を読み終えたところで、勉強会はお開きになってしまいました。
結果として、『バリアフリー・コンフリクト』と銘打った勉強会であったにもかかわらず、あまり『コンフリクト』の内容には、届かない勉強会になってしまいました。しかし、ある意味では、この勉強会自体が、『取り上げようと思っていた内容』と『制限時間』という『コンフリクト』にぶち当たってしまったとも言えると思います(?)。
というわけで、今回の勉強会は、動画(『爆笑問題のニッポンの教養』)と資料(『「障害者」って誰?』)を読みながら、内容について対話するという勉強会でした。先ほど書きましたように、前半では、①動画についての感想・印象に残った個所②『障害者ってどういう人のことだと思いますか?』『障害って何だと思いますか?』というテーマで対話しました。後半では、③内容について読み進めながらの対話しつつ、最後に、④福祉施策の対象となる人たち(必ずしも〈障害者〉に限らなくてもいい)を、どうやって決めたらいいと思いますか?、というテーマで、対話をしました。
以下、対話の中で、出てきた意見の一部を、勉強会の最中に僕がとったメモの内容をまとめていました(勉強会の後、メモを元に、記憶を掘り起こしながら、書いた文章ですので、内容に間違いなどがありましたら申し訳ありません)。
①の対話(動画の感想・印象に残った個所)の際に出てきた意見の一部:
・動画で、爆笑問題の田中さんが、盲ろう体験を振り返り、手を引いてくれた太田さんのことを『すごく安心して、もしかしたら好きになってしまうかもしれない』と言っていた箇所が印象的でした。普段一緒に仕事をしているはずの二人が、いつもと違う感覚の世界で、お互いに触れあったときに、普段では感じないほどの強い感情を感じる、というのが面白いな、と思いました。感覚の種類によって、外界から得られる情報の「質」が違ってくるのかもしれないな、と思いました。
・動画を見て、どっちが障害か障害ではないかという線引きは、社会的に便宜的に必要なものだけれども、健常者―障害者の違いを人としての優劣に当てはめてしまうのは、よくないことだな、と思いました。
・一つの障害があることは、他の感覚を増強させるようなことがあるのかもしれないな、と思いました。例えば、「見えない」という条件に置かれた時に、情報を得るために、他の感覚を使わざるを得ないから、その結果、触覚などの別の感覚がかえって敏感になったりすることがあるのではないかな、と思いました。以前に、「目の見えない人はどうやって世界を見ているか?」という本を読んだことがあるのですが、そこで、「目が見えないというのは、本来は4本足の椅子が、1本の足がなくなってしまったような状況にたとえることができる。1本足がなくなった分の不安感をなくすように、他の感覚を代行して、足の代わりに使うのだ」という比喩が述べられていたことを思い出しました。
・動画の中の「天才的な人がいるから、どっちがプラスかマイナスかわかりませんよね、という、そんな甘い議論じゃない」という部分にとても共感しました。
ファシリテーターとしての感想:
「感想」ということで、「対話」というよりも「言いっぱなし・聞きっぱなし」のように一人ひとりが自由に意見の出し合いをしました。はじめてこの動画を見たときは、個人的には、フランクルの「絶望=苦悩-意味」の公式についてすごく考えさせられたのですが、参加者の中からは、この部分について「印象に残った」と答えた人がいなかったのが、ちょっと意外でした。同じ動画を見ても、人によって印象に残った部分や、考えることが違うというのは、面白いな、と思いました。
②の対話(「障害者ってどんな人?」「障害って何?」)の際に出てきた意見の一部:
・『自分の責任によらずに、不当に、現実に困っていること』が、『障害』なのだと思います。身体的な障害だけではなく、たとえばDVの被害者など、社会や環境との関係性の中で困っている人も、『障害者』なのだと思います。
・『生活が困難だったり、自分の生きたい生き方がとれなかったりして、苦しんでいること』が『障害』なのだと思います。
・『障害』というと、大きく『身体の障害』と『精神の障害』に分かれると思いますが、いずれにしろ、『人間が決めたラインがあって、そこに満たない人』が『障害者』なのだと思います。障害の重い軽いの程度の差は、そのラインからの距離の問題なのではないかと思います。だから、『何が障害で何が障害ではないか』の線引きは、行きつくところ、そのラインを明確にすることなのだと思います。
・私は、『障害』についても、『障害者』についても、よくわからないです。動画では『産業革命以後、社会が求める均質な労働力の規格からはみ出る人を『障害者』と位置付けた。』と言われていましたが、私は、産業革命よりも前から、『障害者』という概念はあったのではないかと言う気がします。肉体や感覚の一部が物理的に損なわれているような『身体障害』の人や、脳の機能なのかどうかはわかりませんがうまく言葉を操ることができないような『知的障害』の人たちは、社会のあり方や変化とは関係なく、『健常者と違いがあるな』という感じがします。しかし、一方で、うつ病や統合失調症のような『精神障害』は、社会によって作られている概念のような気がします。私は精神病院に入院していたことがあるのですが、いろいろな精神障害の人と付き合ったところ、本当に普通の人たちだな、と思い、彼ら・彼女らと自分の間に『何か違いがある』という風には思えませんでした。
・『「健常者」から見て、「その人と生きることが足手まといだと思われる人」たち』のことを、『障害者』と呼ぶのではないか、と思いました。精神障害者たちは、社会から隔離されてきた歴史がありますが、それは、「健常者から見て足手まといに感じられる人が障害者である」という考えの下で、理解できるのではないかと思います。『障害者』の概念は、健常者が決めているのではないかと思います。しかし、実は、『障害』の本筋は、障害を持っている人が社会で生きる上で、主観的に感じる『生きづらさ』そのものなのだと思います。
ファシリテーターとしての感想:
全体として、全員の『障害者』の定義がまとまっていく(合意が作られる)対話ではありませんでしたが、話し合いが進行するにつれて、一人一人の『障害者』の定義がちょっとずつ変わっていく過程が、聞いていて面白かったです。個人的には、最後の方に出た『「健常者」から見て、「その人と生きることが足手まといだと思われる人」たちのことを、「障害者」と呼ぶ』という定義が印象に残りました。『障害者』を定義するのに、『健常者』という概念を前提として使っていて、しかも、『健常者ではない人』を『障害者』として定義しているわけではないというのが、ずれこんでいく循環論法のようで、面白いな、と思いました。また、『障害者』の定義と『障害』の定義とを、健常者側・障害者側から分けて、考えているところも、面白いな、と思いました。
③の対話(『インターミッション 「障害者」って誰?』の感想や、読み進めながら話し合った内容)の際に出てきた意見の一部:
・障害の当事者ではなくて、法律を作る人たちのように、むしろ『障害者』を外まきに眺めている人たちが、まず、『こういう基準が障害』と、『障害』を決めているのだな、と思いました。そして、その後に、その時の法律の基準から外れる障害を持つ当事者の人たちが、運動などを起こしていって、少しずつ『障害』を広げていったのだな、と思いました。当事者ではない人たちが一方的に『障害』を決めるのだと、そこからあふれる人たちがでてくるなど、問題が起こる。でも、だからといって逆に『障害』を主張する人たちの意見だけから、福祉の対象となる『障害』を定義することも、多分、難しいのではないかと思います。お互いが、コミュニケーションしながら、『障害』や『障害者』の概念そのものが、発展していくものなのだろうと思いました。
・具体的に、『障害』を認定されることで、どういった福祉や医療の施策を受けられるのか、について知りたいと思いました。そもそも、福祉と医療の違いについて、自分はよくわかりません。重なる部分も大きい気がしますが…。
・そもそも、福祉そのものが、社会モデルと言えるのか、個人モデルと言えるのか、について疑問に思いました。福祉施策によって障害のある人を健常者に近づけるように変えていこうという意味では、福祉は個人モデルに近い気がします。逆に、障害のある人たちがそれまでできない状態に置かれていたものを、健常者たちが社会の在り方を工夫することでできるようにしていく、という面では社会モデルともいえるような気がします。福祉そのものが社会モデルと言えるか個人モデルと言えるのかは、福祉のあり方によって左右されるような気がします。
・自分が精神病院に入院していた時に、ちょうど、「精神保健法」から、「精神保健及び精神障碍者福祉に関する法律」に、法律が改正されました。それで、それまで病院の中から出ることのできなかった精神病患者の人たちが、病院の外を散歩できるようになりました。精神障害の人たちが、福祉の対象として取り扱われ始めるようになったちょうどその転換期に、入院をしていたので、当時の自分にはその様子が「不思議だな」と感じられました。
『精神障害者』という言葉を聞くと、どうしても自分には、「国家や警察管理の対象である」という感じがします。だから、『精神障害』という言葉を、自分はあまり使いたくありませんし、他の人にも使ってほしくありません。その言葉そのものが、権力によって勝手に一方的に規定されているような感じがするのです。
ファシリテーターとしての感想:
対話の中で上がった「福祉は社会モデルか個人モデルか」という話題がとても面白かったです。具体的に一つ一つの福祉施策の内容について考えなければいけないと思いますが、同じ施策でも、捉え方によっては社会モデルともいえるし、個人モデルともいえうる、ということもあるのではないかと思いました。
また、対話の内容とは直接は関係ないのですが、この章を読んでいて感じたことは、『吃音は、身体障害として扱われてこなかったのはなぜだろうか?』という点でした。今の言友会では、吃音者の精神障害者手帳(発達障害として)取得に向けての議論を盛んに行っていますが、そもそも、吃音症が発達障害であるという考えを持っていた人は、3年前までは国内ではほとんどいなかったはずです。おそらく、ほとんどの人たちは、医者も当事者も全員、吃音で仮に障碍者手帳を取得するのであるならば、言語障害(身体障害)の一種であろうといった認識であったと思います。身体障害者福祉法の制定時から、言語障害は福祉施策の対象であったはずなのに、吃音症の人たちを身体障害者福祉法の対象としてこなかった経緯(言語障害で身体障害者手帳を取得する基準の変化)について、知りたいなと思いました。海外の吃音団体についてまだあまり知らないのですが、おそらく、吃音の場合、日本では『自助』の考え方が中心で、社会に支援を求める、という発想が、他の障害団体に比べて薄かったことがその一つの原因なのかな、と思いました。
④の対話(『福祉施策の対象となる人(必ずしも障害者に限らない)をどのように決めたらいいと思いますか?』)の際に出てきた意見の一部:
・福祉政策について考える上で、最も重要なのは財源の問題だと思います。重い税金を取って福祉に当てすぎてしまうと、社会主義国家のようになってしまい、『働かなくてもよいのではないか』という考えから、国として崩壊の道をたどってしまいます。
・現在、議論されているベーシックインカムの制度についてですが、国民全員に一定額を給付するという理念そのものには賛成なのですが、生活保護が廃止され、実際に施行されると、現在生活保護の対象になっている人たちの給付金がむしろ下がってしまうという話があるそうです。制度の理念そのものには賛成ですが、きちんとした線引きを行い、本当に困っている人たちにとって役に立つ福祉施策が必要だと思います。
落としどころとしては、ベーシックインカムをきちんと高額で給付し、同時に生活保護の範囲を拡大し、例えば就労支援施設の給料だけでは暮らせない部分を生活保護で賄い今までと同じように暮らせるようにする、という形が理想なのではないのかと思います。
・公的機関での施策というテーマだと思うのですが、自分は、民間の期間に期待したい部分が強いです。例えば、自分は不登校児だったのですが、自分が通っていた不登校児のためのフリースクールでは「学校に行けるようにすること」がゴールとして定められていました。自分としては、「学校に行かなくても生きていける」「就職しなくてもやっていける」ことをも視野(ゴール)に入れてもらえると、ありがたかったのですが、そのようなゴールを定めるのは、おそらく行政から反対があり、難しかったのではないかと思います。
民間には、公的機関では決して設定できないような、面白いゴールを掲げているNPO法人が多々あります。狭いゴールではなく、広いゴールが設定できる民間のNPO法人などが頑張ってもらえると、例えば不登校児にとって生きやすい世の中になるのではないでしょうか。
ファシリテーターとしての感想:
教科書の内容を超えて、様々な意見が出てとても勉強になりました。生活保護やベーシックインカムについての法律や、民間団体の活動などについても、知りたいと思いました。今の自分に足りない知識なので、これから勉強しないといけないな、と思いました。
勉強会全体を通しての感想:
時間の都合上『コンフリクト』の内容までには届きませんでしたが、勉強会そのものは、とても面白かったです。対話の運営も、勉強会を重ねるたびに、少しずつ、うまくなってきた気がします。今回扱えなかった内容については、次回以降の勉強会で、扱いたいな、と思いました。
参加者のみなさん、全員が、動画や資料を一生懸命読み、自分の考えを、本当にはっきりと、丁寧に、考えながら、発言してくださいました。皆さん、本当にありがとうございました。
【感想】
前回に引き続き、アンケートの中から完全匿名にて紹介します。
・何をもって障害者とするのか、障害とは何なのか掘り下げていくときりのない、結論の出ない話だと思う。社会からしたらマイノリティである私たち吃音者グループの中でも、そこからさらに自分たちからは想像の及ばない理由で軋轢ができたり、馴染めない人もいる。
障害と福祉の問題は、自分の想像の外にある世界、他者との相互理解、片方の視線ではなく、お互いの目で物事を見ることが根本で大事なことなのかなと今日の勉強で感じた。
私たち吃音者も自分の問題だけではなく、他の障害、マイノリティへの理解を深めることは大事だと思った。(30代男性、非会員)
・障害者、障害という言葉について深く考えたことがなかったので勉強になりました。身体障害、精神障害、発達障害に関する法が分かれているのを知り、自分が「障害」という概念を一括りにしていたことに気が付きました。
医療、福祉の違いも意識したことはありません。この先、世の中を新しい目で見ていきたいと思います。(30代男性、非会員)
・大学の講義のような内容で、対話を参加者同士で「テーマ」の下にそのつど行うような内容で、非常に勉強になりました。
山田さんの勉強会は「対話」のかたちでの進行のものが多いので、一つ一つの設問に答えながら対話するのが大学のレポートの設問に答えるようなかんじでとても勉強になりました。(30代男性、会員)
・個人的に最も印象に残ったのは、福島先生のビデオで、爆笑問題の太田さんがスティービー・ワンダーの例を挙げ、障害者と健常者、どちらが幸せかわからない、みたいな話をされたのを受け、福島さんが「私も全盲全ろうで日本のヘレン・ケラーなんていわれてもてはやされたが、下宿ひとつ探すにも四苦八苦した。障害を持ったある傑物を捉えて、障害者と健常者どっちが幸せか、などといっても、そんなに甘いもんじゃない」とおっしゃったことです。
私もおおいに共感しました。私は「五体不満足」という本がでたとき、ものすごい危機感を持ちました。すなわち「これが健常者にとって、障害者のステロタイプとなりはしないか」という懸念です。乙武さんのように親や友人に恵まれ、挫折らしい挫折を知らぬまま大人になれる障害者は稀で、だれもがあんなに前向きに生きられるものではないからです。
障害者のきれいな部分だけをみてわかったように語らないでほしい。現に困って、自殺や犯罪に走る障害者はたくさんいます。四肢欠損だから、全盲全ろうだから障害者なのではなく、社会において自らの責任ではないところで不当に困難を強いられている人こそがあまねく障害者なのだと、私は思います。(40代男性、会員)
コメントをお書きください