【報告】
5月21日、吃音勉強会を開催しました。
今回の勉強会は、「異なる当事者の体験談を聞こう」ということで、昨年全国大会にもゲスト講演で来てくださった脳性麻痺当事者で現役の小児科医の熊谷晋一郎さんの『リハビリの夜』を読んでみようという趣旨の会でした。
勉強会では、リハビリの夜の第1章の内容を主に読みました。時間がなく、それ以降の部分については読むことが出来ませんでしたが、内部モデルの話や緊張しやすい身体の話についてはみんなで読むことが出来ました。
勉強会にしては、多めの6人の人が参加してくださいました。参加してくださった皆様、ありがとうございました。
今回の勉強会の反省としては、かなり難しいという意見が多かったです。正直、僕も最初に『リハビリの夜』を読んだ時、すぐに理解することが出来なかった(今でも完全に理解できているわけではありませんが)ために、何度も読み返したことを思い出しました。次回からは、もっとわかりやすい勉強会(あと、楽しい勉強会)にしなければならないな、と思いました。試行錯誤しながら、工夫してみようと思います。
勉強会では、社会モデルの考えが吃音の世界にはないことや、吃音の身体の不安定性についての話が主になされました。
今回も、前回の勉強会の報告文と同様に、勉強会の感想と言うよりも、今回の勉強会に少しだけ関係して、最近、私が個人的に考えていることを少しだけ書かせていただきます。
日本の吃音者たちは、社会モデルの考えをこれまで主張してきませんでした。これについては、色々な説明の仕方があると思うのですが、僕は、「どこまでがインペアメントでどこからがディスアビリティなのか」、という線引きをするのが吃音者にとって難しかったことがその原因の一つなのかな、と、最近考えています。
というのも、「どもる」という言語症状自体は、「吃音者の一次的特徴と捉える」こともできると思いますが、「何かの結果(二次障害)であると捉える」こともできるような気が、僕にはするのです。
熊谷さんの『リハビリの夜』を読むと、「どもる」ということは、熊谷さんの「緊張しやすい身体」のように、吃音者の身体の一次的特徴であるように思えます。しかし、熊谷さんと綾屋さんの共著『発達障害当事者研究』を読むと、むしろ、「どもる」ことは、吃音者にとって何かの二次障害の表れであるように僕には思えてくるのです。
『発達障害当事者研究』では、自閉スペクトラム症の本体(一次的特徴)を、「コミュニケーションの障害」ではなく、「感覚統合の問題」ととらえなおそう、という主張がなされています。従来言われていた「コミュニケーションの障害」というのは実は自閉スペクトラム症の二次的障害であり、(綾屋さんの)自閉スペクトラム症の一次的特徴は、「意味や情報のまとめ上げがゆっくり」などの「感覚統合の問題」である、というわけです。
だから、「うまく話せない当事者研究」の結果身に着けた、(吃音者の言語訓練に、そのメカニズムもやり方もそっくりな)「話し方の工夫」も、綾屋さんにとっては、自分の身体を否定することにはならない、ということになります。
吃音も自閉スペクトラム症と同様に、感覚統合や聴覚フィードバックに問題があると言われています。だから、「どもる」という言語症状は、綾屋さんにとっての「コミュニケーションの障害」のように、むしろ何かの二次的な障害であり、本体は、別の何かである、ということが言えるような気がします。
また、吃音者はいつでもどこでも必ずどもるわけではありません。「どういうときにどもりやすくて、どういうときにどもりにくいのか」は一人一人違うと思いますが、一般的に、歌や斉読の時には、吃音は完全に消失すると言われていますから、「いついかなるときでもどもる」という吃音者は、おそらくいないだろうと僕は思います。
そう考えると、「どもる」というのは、吃音者の身体の一次的特徴とは呼べないような気がします。「どもることがある」とか「どもりだすと抜け出せなくなる」いうのなら、吃音者の一次的特徴と言っていいかもしれませんが、しかし、それだと「普通の人がどもる」のと区別するのが難しいので、やっぱり、これらの定義も吃音の定義としては不完全であるような気がします。
話を元に戻しましょう。そういうわけで、「どもる」ということは、考え方によっては、「吃音者の身体の一次的な特徴ではない」と言うことが言えるような気がします。しかし、僕にはどうも、この考えについて、当事者の実感として、違和感を覚えます。
僕はどちらかと言うと、伊藤伸二さんの「治す努力の否定」という考えに共感している人間なのですが、「間をあけて話す」などの工夫は、やっぱり、何らかの意味で「吃音者であるという自分の身体を(否定とまではいわないまでも)克服しようとしているような試み」に思えて仕方がないのです(もちろん、自閉スペクトラム症の綾屋さんの身体と吃音の僕の身体とは違うものなので、こんな風に考えてしまうのは、「過剰な一般化」なのですが…)。
このことを考えると、むしろ、何が一次障害で、何が二次障害なのか。その線引きが難しく、「混然一体としている」ことこそが、吃音問題の難しさや(ちょっと言い過ぎかもしれませんが)その本質であるようにさえ、僕には思えます。
別の言葉でいえば、「吃音を自分の中にあるもの」ととらえるか、「自分の外にあるもの」ととらえるのか、の違い、と言えるのかもしれません。あるいは、「自分と他者との関係の中に介在しているもの」ととらえるのか、もしくは、「ファジーなものとしてとらえるのか」という姿勢も、「吃音との付き合い方」としてあり得るでしょう。そして、その「付き合い方」によって、「吃音を受容する(受容しない)」ことの意味や、「吃音を治したい(治したくない)と思うこと」の意味は、変わってくるような気がするのです。
たとえば、昨年、伊藤亜紗さんとインタビューした時、伊藤さんは、「吃音は、他者との関係性の中にある」とおっしゃっていました。しかし、僕(山田)は、「吃音は自分の中にある」と考えています。やっぱり、当事者によって、「吃音をどこにあるものとして捉えるのか」は、変わりえることなのです。
ところで、僕は、ここのところ、当事者研究を重ねれば重ねるほど、「実は、吃音って自分の外にあるものなのではないか」と思うようになりました。同時に、「別に、吃音を治そうとしてもいいんじゃないかな」とも思うになりました。
このことが、「良い変化」なのか「悪い変化」なのか、僕はわかりません。伊藤伸二さんの考えに共感していたかつての自分のことを思い出すと、「そんな風に考えるのはよくないことだよ」という声が、身体のどこかから聞こえてくるような気がするのですが。
もしかしたら、「何が一次障害で、何が二次障害であるのか。はっきりさせず、あいまいなまま障害と付き合う」ということが、ある人たちには、とても大切なのかもしれません。「あいまいなまま」というのは、ある意味で、「言葉を与え(更新)続ける」という当事者研究そのものの姿勢と相反することになりますが、もしかしたら、ここに、当事者研究の限界のような気もします。
これもどういうことかうまく言語化できないのですが、自己肯定のためには、「あいまいであることを開き直ること」や「矛盾していることを無視できる力」がどこかのプロセスで必要であるような気がするのです(そういえば、自己肯定感が高いやつと言うのは、どこか鈍感なやつです)。ただ、それがまた、僕の場合、「二重スパイ」(伊藤亜紗さんとのインタビュー参照)という、ある種の人格障害に似た、ひねくれた自己肯定によってもたらされる別の生きづらさを生んでいる可能性があるのですが…。
今回の勉強会の内容とは直接関係ありませんが、そういうことを、考えていました。(山田)
【感想】(アンケートより抜粋)
・昨年9月のワークショップでシンポジウムを担当された熊谷晋一郎先生を題材に議論しました。今回はさすがに難解で、ついていくのがやっとでした。
脳性麻痺界隈の議論が医療モデル→社会モデル→当事者研究、と時系列に落とし込めるのに対して、吃音界隈の議論は医療モデルから枝分かれ的に当事者研究があり、最近になって社会モデルという概念が出始めたものの三者並行して存在しつつおのおのが対立した三すくみ状態にある、という話が興味深かったです。(40代男性、非会員)
・今日の勉強会は脳性麻痺の当事者研究をされてる熊谷先生の事で脳性麻痺と健常者との考え方など難しかったですが、吃音の障害と比べると身体的に辛い物があるなと思いました。(30代男性、会員)
・吃音と脳性マヒ、他の障害では感覚や抱える問題の質は千差万別だけれど決めつけと思考停止は本人の抱える問題、社会や世界との関係を悪化させてしまうというのは全てに共通することなのかもしれないと思った。(30代男性、非会員)
・勉強会自体、初めての参加でした。
勉強会、難しかったですが、改めて脳性マヒについて調べたいと思いました。
担当者の方が一人一人に話を振ってくれたので話しやすかったです。
ありがとうございました。(30代男性、会員)
・熊谷さんの当事者研究は、吃音者にとっても難しいことが2つありました。1つ目は、科学的根拠が少ない表現を使っていることです。2つ目は、周囲の環境に適応しにくいという状況が、他者からの結果とは言い切れず、自分の知覚があって他者からの結果と本人が捉えていることです。
はっきりしたことは、症状に共通がなく自分達と同じようだと下手なことを言ってはいけないことでした。
第3者の感想ですが、何だかんだ前向きだと、本人が社会に出ているので分かりました。(20代男性、非会員)