6月 第2回新・吃音勉強会

●吃音と認知行動療法(灰谷)

◎事前の告知文◎

 ご無沙汰しております。今は埼玉言会の会員ではありませんが、勉強会を担当させていただきます。当日は、①認知行動療法についての簡単な説明、②ワークシートや会話を通した認知行動療法の技法の紹介や実践等を行う予定です。

 具体的には、吃音に対する考え(「この場面でどもったらいけない」「どもったら評価が落ちる」など)が、本当に事実を表しているのかどうかを、確認してみる作業を行ってみれればと考えています。そのうえで、吃音に関連してどのような行動がとれそうか、マイルドに考えられればと思います。

Web開催での勉強会担当ははじめてですが、ご参加をお待ちしております。

◎担当者による報告文◎

 私の中でよく記憶に残る出来事というのは、たいていは自分では予想していなかった物事です。計画通りにうまくいったことも大切な経験ですが、当初は予定していなかったけど、流れに身を任せて体験したことの方が、自分の中ではよく記憶に残ります。

 今回の勉強会は、私の力だけでは、まず行われることはなかったと思います。5年ぶりの勉強会の企画を山田さんが提案していただいたから、今回の勉強会の実施につながったわけですが、私が普段通りに生活を送っているだけでは、「吃音勉強会を企画・実行する」という行動を取るとは考えられません。自分の計画にはなかったことが自分の身に降りかかってきたときに、できるだけ、その予定外の事柄を受け取るようにしたいと思っています。

 今回勉強会で取り上げた認知行動療法は、自分の置かれた状況を客観的に捉えて、考え方や行動を「適応的」なものに置き換えていく、という側面があり、「エビデンス(根拠)」に基づく臨床心理学的実践の代表的なものであると考えられています。時には、「エビデンス」と呼ばれるものが独り歩きして、当事者の実態に沿わないやり方で認知行動療法が応用されてしまうことがありますが、今回の勉強会での後半部分(「注意訓練法」という技法を実践していただいた部分)が、まさにそのようなものであったのかもしれません。山田さんの感想にもあるように、吃音の問題を「注意」という限定した観点から捉えることには大きな限界があり、わかりやすい「理論」と「技法」を独り歩きさせてしまって、その背後にあるはずの様々な複雑な文脈(その人が特定の場面で感じていることや、これからどのようにしていきたいと思っているかなど)をもっと丁寧に拾っていければよかった、と思いました。

 今回扱った「注意訓練法」は、「今、ここへの気づき」を表す「マインドフルネス」とも関連するものです。マインドフルネスが臨床心理学の文脈で語られるとき、あまりにわかりやすい「技法」や「注意転換法」としてとらえられることがあります。本来は、その背後にある様々な価値観を踏まえたうえで、マインドフルネスは意義を発揮することができるものですが、あまりに簡単な「技法」のようなものとして理解されてしまったことも、私としては1つの反省点です。

 勉強会後には、企画していただいた山田さんと、素直に感じたこと(「技法」として「注意訓練法」を紹介したことに違和感があったことなど)を話すことができました。この話ができたことが、正直に言うと、今回の勉強会の中で、一番記憶に残った印象的な時間でした。自分の中の違和感を言葉にすることで、改めて自分が素直に感じていることを理解することができたのではないかと思います。

 「理論」や「エビデンス」、「技法」という「わかりやすい」ものも参照しつつ、言葉や数字だけではうまく言い表しきれない、もやもやとした「わかりにくい」主観的な体験もありのままに感じて、表現してもらえるような勉強会にしていきたいなと思いました。

 

◎参加者の感想(一部)◎

●(Yさん)貴重な時間を作って下さりありがとうございました。

 複数の音が存在する中で、ある特定の音のみ意識して聞くトレーニングは私にと

 って難しかったです。思い返してみれば、勉強をするときに、周りの人の声がう

 るさかったりすると集中できなかったり、ドライヤーをかけるときにその他の音

 が聞こえなくなったりすることがあったので、何か共通する部分があるのかなと

 思いました。吃音をもっている人は神経質な人が多いと言われていますが、これ

 も内への注意が強いために、外への注意が向けられていないことが原因なのかな

 と思いました。これからは吃音を肯定的に捉えられるように、意識的にトレーニ

 ングをしてみたいと思いました。次回もぜひ参加したいと思っています。よろし

 くお願い致します。

 

●(山田)とてもわかりやすく、コンパクトにまとめられていて、すごく勉強にな

 った吃音勉強会でした。個人的には、灰谷さんによる認知行動療法とマインドフ

 ルネスの勉強会は5年ぶりの経験で、すごく懐かしかったのと同時に、当時と今

 とで、自分自身の変化(認知行動療法やマインドフルネスに対する受け取り方の

 変化)を感じました。勉強会の開催は、準備も含めて、とても大変だったと思い

 ます。改めて、担当者の灰谷さん、ありがとうございました。

 

●前半の認知行動療法についてのワークで、僕は、最近の浪費についての自分自身

 の問題(買い物依存。最近、プラレールを衝動的に、大量に購入してしまうこと

 がやめられなくて、貯金ができずに困っている問題)について取り組み、整理を

 しましたが、あまりうまくまとめることができませんでした。

 どうして、うまく整理できなかったのか。いろいろ、考えたところ、症状そのも

 のを問題にし、背後にある心理的な要因(博士論文のストレスや、「逃げたい」

 「忘れたい」「恥かしい」などの気持ち)をちゃんと整理できていなかったこと

 が、その理由の一つなのかな、と思いました。

 依存症の世界では、「依存症自体が問題なのではなく、その背後にあることが本

 質である」「依存症自体は、実は、当事者が抱えている問題の氷山の一角に過ぎ

 ない」ということが、よく言われることがあるそうです。吃音の「氷山仮説」と

 も通じるものがあるように思いますが、依存症も、症状そのものを解決しようと

 するとうまく問題をうまく整理しにくいものなのかもしれないな、と改めて思い

 ました。

 一方で、同じように「症状自体は、氷山の上の部分にすぎない」とはいっても、

 吃音の「氷山」と依存症の「氷山」とでは、ちょっと、構造的に違いもあるよう

 な気もします。

 例えば、「ストレスが溜まって発散するために、プラレールを大量購入をしてき

 た」という表現は、個人的に今の自分の生きづらさを記述する言葉として腑に落

 ちるのですが、「ストレスが溜まって、吃音が悪化した」というような表現に

 は、自分の体験を記述する言葉としては、ちょっと、飛躍を感じます。僕の吃音

 は、ストレスが高い時期に症状が悪化することもあり、それを「ストレスと関係

 しているのかな」と感じる時もありますが、必ずしも症状が悪化している時期に

 「多くのストレスにさらされた結果だ」とは主観的に思えないことも結構多いか

 らです。依存症の方が、背景にある感情と症状の関係について、吃音よりも、わ

 かりやすい言葉で説明しても、そこまで違和感を感じにくい体験なのかな、とい

 うような気がしました。もちろん、依存症の背景にも様々な要因が複雑に関係し

 ていて、そう簡単には説明しがたい内容もあると思いますし、質的な生きづらさ

 を簡単に比較することはできないと思います。また、今の日本では、依存症は、

 吃音に比べて、スティグマが大きいので、大変な部分が多いと思いますが、吃音

 の方が、全体としてわかりにくく、当事者であっても自分自身の生きづらさに対

 して納得のいく言葉をあてがうことがすぐには難しい生きづらさなのかもしれな

 いな、とも感じました

 後半のマインドフルネスのワーク(音を聞き分けるワーク)は、正直、難しかっ

 たです。「吃音との付き合い方で、応用できるか」という点に関しても、すこし

 疑問を感じました。「今、ここに、意識を向ける」という意味で、第3世代の認

 知行動療法と言われるマインドフルネスは、僕が好きな竹内レッスンや身体感覚

 や症状に焦点を当てる当事者研究などとも通じる面があるように感じます。感覚

 に焦点を当てることで、今まで遮断していた身体感覚に敏感になり、気づきが得

 られる、ということも、経験的にその良さがわかる気がします。しかし、感覚だ

 けに集中してしまうと、吃音の世界で昔から言われてきた「注意転換法」と、そ

 れほど違わないものになってしまうのかもしれないな、と感じました。認知行動

 療法の「認知のゆがみ」という概念は、必ずしも個人の問題とは言えない、個人

 と環境との間での「ずれ」の問題としての生きづらさを、認知の問題として個人

 に帰属させてしまう、という点で、違和感を覚えることもありますが、どちらか

 というと、自分は、マインドフルネスよりも「言葉で納得をする」という認知行

 動療法の方が好きなのかもしれないな、と感じました。

  会の終了後、灰谷さんと久しぶりに、長くお話をして、「セラピストとクライ

 アントの多重関係の中で、どう振る舞えばいいのか、なやむことがある」、とい

 う体験を共有しました。僕自身も、セラピストとして関係しているわけではない

 ですが自助グループや当事者研究会の運営の在り方や、研究者としての論文の書

 き方、言ってみれば、「当事者でありながら、自助グループや当事者研究の活動

 をし、その内容を研究として学術化しようとている」という特殊な立場におかれ

 ている自分自身の「振る舞い」について悩むことが多いです。そのため、具体的

 な内実には違いがあるでしょうが、大きなレベルでは近い悩みのような気がして

 共感的に対話し「どうしたらいいと考えているのか」を灰谷さんと共有できたこ

 とも、とても、有意義な時間でした。

  話の中で、僕は、「手塚治虫の『きりひと讃歌』の文庫本のあとがきで養老孟

 司先生が書いていた文に、はっとさせられた」という話をしました。せっかくな

 ので、今回の感想文で、その部分を引用したいと思います。

 「権力は、かならず現場から離れた部分に発生する。小山内(山田注:主人公)

 は現場すなわち犬神沢と患者に張り付いてしまう。竜ヵ浦教授(山田注:かたき

 役の教授)にとって、患者はすでに患者ではない。彼のモンモウ病伝染説を裏付

 けるべき資料である。手塚治虫が描くこの部分は、「医学」というものが初めか

 ら持つ難点である。患者は個人性と資料性の両面を持つ。個人はかけがえのない

 自然であり資料性とは医学を成立させる普遍性の面である。その両面を尊重する

 ことが医学の実践なのだが、手塚治虫はそれを小山内と竜ヵ浦の二人に分離して

 しまったのである。正直に言うと、医者でなくなった手塚治虫は、じつはそれを

 二人に分離する権利はなかった。それは私自身が臨床医でないから、はっきり言

 うことができる。むしろ医者は、その二つの間で引きさかれるものである。そし

 てその両面を同時に持つのが人間なのである。」(養老孟司『エッセイ 権力と

 は何か』)

「矛盾し、引きさかれるのが、人間なのである」という表現は、自分自身の矛盾し

 た振る舞い方について、研究者や臨床家が「居直る」方向にも使われうる言説な

 ので、注意が必要です。しかし、研究や臨床の倫理性に、本質的に大きくかかわ

 るところだと思います。とりわけ、当事者研究のような、今までは在野で行われ

 てきた活動が、大学と言う場所で、展開されるにあたり、避けては通れない「振

 る舞いについての倫理的な問題」がたくさん存在しているように、体験として、

 個人的には強く感じます。

  多重関係に気が付き、「どうすればよいのか」を悩みはじめた臨床家や研究者

 が、自分自身の抱えている矛盾を「なかったこと」にせず、目を背けずに、真摯

 に、「自分がその矛盾に対してどう考え、どのような態度をとっているのか」を

 言葉にしていくことが、大事なことではないか、と今の僕は考えています。それ

 は、学術的な意味にとどまらず、臨床家や研究者自身にとっても、また、専門家

 や臨床家と非対称な関係に置かれている多くな当事者たちにとっても、意義のあ

 ることのように僕は考えています。 今、執筆中の博士論文でも、僕が、この数

 年間の中で感じた矛盾について、可能な限り丁寧に言葉にしていきたいと改めて

 思いました。

  5年前に開催をしていた吃音勉強会では、専門知を一方的に鵜のみにするので

 はなくて、参加者一人一人が、「この専門知は、実際に、使えるか」などを考え

 たり「専門家はこう言っているけれども、当事者として、僕はそうは思えない」

 といような「違和感」を参加者がそれぞれに共有していく対話の時間を、大事に

 していました。最初の方に、依存症と吃音の比較で、「吃音の方が、当事者であ

 っても、わかりにくい」ということを書きましたが吃音は、当事者のみならず、

 「専門家」にとっても、「どういう姿勢で関わるのかが、難しい」生きづらさの

 ような気がします。

  これからも、新・吃音勉強会が、専門知を学ぶ時間と同時に、「自分が何を良

 いと考えて何を良いと思わないのか」を、探索的に考えたり、気が付いていき、

 そのことを共有して生けるような時間になればいいな、と個人的に思いました。

  今回の第2回新・吃音勉強会は、たくさんのことを探索的に考え、自分自身の

 考えを整理したり、確認することにもつながった、とてもいい時間でした。言っ

 てみれば、この勉強会への参加そのものが僕自身にとって、認知行動療法やマイ

 ンドフルネスのような時間だった、と言ってもいいかもしれません。

 準備も含めて、勉強会の運営は大変だったと思います。改めて、主宰者の灰谷さ

 ん、すばらしい時間をありがとうございました。