10月 第5回 新・吃音勉強会

●場面緘黙について学ぶ(角田)

事前の告知文◎

かんもくネットhttp://kanmoku.org/ という場面緘黙児支援のためのネットワーク団体の代表をしている角田圭子といいます。

埼玉言友会の方から「吃音と比較されることがある場面緘黙について学びたい」という声をいただきました。

小児科心理士と小学校スクールカウンセラーをしている臨床心理士/公認心理師ですが、私自身、吃音をもつ子どもたちに関わったことは少数しかありません。

吃音と場面緘黙、違う状態ですが、まれに併存している子もいます。

また、取り組み方や付き合い方に、いくらか重なる部分があるかもしれないと感じています。

場面緘黙について知っていただくと同時に、みなさんと話し合うことで私自身が学べたらいいなと思っています。

◎担当者による報告文◎

 埼玉吃音勉強会で「場面緘黙」の話をさせていただきました。場面緘黙と吃音の違いが考えさせられ、とても有意義な会でした。私にとって議論の内容は高度で「〇〇のカウンター」など耳慣れない言葉がでてきて実は理解がおいつかなかった部分もあります。時間配分を考えもう少しディスカッションの時間をとっていれば、その辺も深められたと反省です。

 

 議論の中で「(遺伝的)気質」「性格」「症状」というような用語を確認できました。その中で、改めて感じたことは、場面緘黙は症状の外在化が難しいということです。場面緘黙は、周囲も本人もこの「症状」を「性格の問題」だと容易にとり違えてしまいます。

 

 また、場面緘黙の症状は、取り組みによって改善が見込める症状です。場面緘黙の症状を「(遺伝的)気質の影響が大きい」と子どもに説明するのは、「自分のせいじゃない」ことを知らせて「自分で変えられるもの」と「自分では変られないもの」を区別することで、症状の外在化を促す意味があります。

 

「吃音」は「どもって話してもいいんだよ」というメッセージがしっくりきますが、場面緘黙について「話せなくてもいいんだよ」というメッセージには違和感を感じました。吃音は「どもって話す(表現する)」症状ですが、場面緘黙は「話せない(表現できない)」症状。場面緘黙の当事者は、本当は「自分を表現したい」「できることなら話せるようになりたい」と思っている。なのに「話せなくていいんだよ」というメッセージは、症状を応援する声掛けに感じるからだと思います。「話さなくていいから参加してね」「話さなくてもいいから他の方法で伝えてね」、(支援者の立場の者からのメッセージなら)「粘り強く取り組めばきっと話せるようになるよ」というメッセージの方がしっくりくると思いました。

 

 勉強会の中で、当事者研究の話が出ました。場面緘黙症の当事者(経験者)が出した書籍はコミックを含めて何冊か出ていますが、どれもとても興味深くこれからの分野と期待しています。場面緘黙は症状だけでなく、状態像も背景も経過も多様なため、共通・共感する部分もありながら個人差の部分も大きいのではないかと思います。今後、当事者研究もすすんだらいいなと思いました。

◎参加者の感想(一部)◎

(Mさん)

 今回は場面緘黙の支援団体の主催者を呼んでの勉強会でした。小児に対するアプローチに重点が置かれていることもあり、構成員は療法家や親御さんが主体で、当事者不在の感はやはり否めませんでした。

 吃音も緘黙も当事者としては実社会において精神論に落とし込まれることに強い違和感を覚えるものですが、吃音が昔から機能的アプローチからの改善効果が一定程度認められ、近年では脳機能に何らかの障害があることが明らかになってきているのに対し、緘黙については情緒的アプローチに偏り、しかもそれがある程度奏功しているという現実を顧みても、やはり吃音と比較して緘黙を精神的、器質的なもので語ってほしくはないという当事者の主張はいささか苦しいのかな…と世間では捉えられてしまうおそれがあり、それが当事者の苦悩をさらに深める結果になるのではないかと感じました。

 今回はかんもくネットの主催者ということで公式ツイッターを少し眺めてみましたが、やはり当事者の声に耳を傾けきれてはいないのではないかという印象を受けました。場面緘黙当事者のツイッターアカウントは多数あり、それぞれが水を得た魚のように活き活きと苦悩を語っています。またそれに対する共感やリツイートも吃音者のそれ以上に多くなされており、共感に対する飢餓感を深めている当事者がいかに多いかを物語っていると感じます。吃音と同様、当事者の中での連帯により世間に対しオピニオンを発信していく組織の発展が望まれているのではないかと思いました。

 

(Iさん)

 場面緘黙は人によって症状が異なるということ、さらに有力な仮説はあるが原因については研究途上だという話を聞き、つかみどころがない状態という印象を持ちました。日常生活上での一部の困りごとは吃音と共通しているため、私は吃音当事者として「共感」ベースで場面緘黙について理解したいという誘惑に駆られることがある一方、だからこそ自分の経験に由来する先入観をできるだけ排して学ぶ機会も大切だと考えています。(だが後者の態度は他者化や周縁化の罠につながる……みたいなことを気にしだすときりがないのですが。)言うまでもないですが、「かんもくネット」などの関係者による社会的認知度を上げるための活動は極めて重要だと思うし頭が下がります。

 会の中で質問したことですが、場面緘黙の主な原因のひとつとされる「不安になりやすい気質」という精神医学的な概念の理解が自分にとっては少し難しかったし、この説を受け入れてよいのかという躊躇があります。広義の「性格」のうち、生まれつきの部分を「気質」と呼ぶことがあるそうです。また、生得的な要因が場面緘黙に大きく影響している場合、それを医学的な観点から治すことが適切であるとは一概に言い切れないのではないか……という疑問も生まれました。

 ところで近年の日本社会においては、「コミュ力」「積極性」のような数値化できず性格や人格と切り離せない要素までもが個人の能力として評価される傾向が強まっているという見方があります(cf. ハイパーメリトクラシー)。例えば場面緘黙のように周囲から非社交的であるといった誤解を受けやすい状態であることがこの社会の中で生きる上でどのような意味を持つのか、このような「求められる人物像」的問題に直面する可能性のある当事者に対し支援者や周囲の人間はどのようなメッセージを発すればよいのか、ということでもなにか議論ができそうだと感じています。

 最後に、個人的にいまアイデンティティ形成とか多元的な自己認識といったテーマに関心があるので、支援などを通して場面緘黙(あるいは「ことばが出にくい状態」)だと認知した若い当事者のアイデンティティはその後どのように変化していく可能性があるのか、という点も気になりました。余談ですが、私は吃音で困っていた小学生のときに通級指導学級「ことばときこえの教室」で数年間支援を受けたものの、最後は自分の希望で行くのを止めてしまった経験があります。この時期の心境の変化は大して覚えていないのですが、周囲と自分の社会関係についてなにか葛藤があったらしいです。今回は時間の関係で難しかったですが、障害や疾病概念との距離のとり方について、機会があれば場面緘黙当事者の意見を聞いてみたいと思いました。

 

(Iさん)

 場面緘黙についての説明の合間に、吃音の方から「そこ大事なところだなあ」と思える問いかけやご意見があり、まだまだ議論したかったです。認知度自体が低く、自身の場面緘黙に気付いていない・必要な支援にたどり着けていない人も多い場面緘黙。症状や社会的障壁に共通点があり、かつ研究や活動に長い歴史をもつ吃音の方々と理解を深め合えることは、元当事者としても貴重な機会でした。有意義な会を主催してくださり、ありがとうございました。

 

(Yさん)

 緘黙について色々な情報を得ることが出来てよかったし有り難かったです。参加している方々の質問などのやりとりを聞いて深く考えさせられました。吃音と緘黙の比較もできました。緘黙の日本での研究がさらに進んで、啓発が進むようになったら良いなと思いました。そのためにも勉強会で学んだことや感じたことを国リハ学院のみんなとシェアしたいと思います。企画、運営ありがとうございました。

 

(山田)

 今回は、場面緘黙についての勉強会でした。

前回の勉強会の最後に、「吃音と比較されることのある場面緘黙について学ぶ勉強会を開きたい」という意見が出たため、前回の新・吃音勉強会をご担当された梅津さんからのご紹介で、かんもくネットの代表の角田さんをお招き、場面緘黙についての講義をしていただきました。

勉強会は、僕がファシリテートを務め、参加者全員のかんたんな自己紹介の後、角田さんに講義をしていただき、その後、質疑応答と感想を共有する、という形で進行しました。

 私自身は、場面緘黙について、それほど多くのことを知っているわけではありません。ただ、言友会や大阪吃音教室などで知り合った「言葉と聞こえの教室の先生」たちの中で、「吃音の子どもたちだけではなく、場面緘黙を持つ子どもたちも担当されている」という方に、何人かお会いしたことがあります。

その先生方からは、「吃音の子の支援以上に、場面緘黙の子への支援は難しい」というお話を伺うことが多いです。「ただ、黙っている子を相手に、一方的にしゃべりつづけているだけの『支援』になってしまう」「吃音以上にどうしていいのかわからない」というような「どう支援をしてよいのかわからない」というような声を伺うことが多い、というのが僕の印象です。

一方で、場面緘黙の経験者の方からの体験談を伺っていると、吃音の体験とも通じるように感じられることが個人的には多くあります。

例えば、「コミュニケーションができないと思われて関係性から排除されたり、場に入れなかったり、所得ない思いをするのがつらかった」、「周囲からの働きかけにはイラっとしたり『ずれてるな』と感じることもあったが、かかわってくれることそのものがうれしかった」、という、「支援の難しさ」や「周囲とのコミュニケーションの『ずれ』」に関する話。

また、「『誰かからのアプローチがありがたかった』というよりは、たまたま自分にとって『つながれそうだ』と感じた人がいて、その人と話しはじめるようになった」、「大人になった今は、昔に比べて話せるようにはなったが、『何がきっかけで話せるようになった』とか、『何かが効いた』ということがあまり思い浮かばない」、「話す練習をしても、特定の状況や人との関係性で話せるようになっただけで、いつでもどこでも同じように話せるわけではなかったので、限定された場での『コミュニケーションの訓練』には限界があった」、「状況や演じているキャラによって、話せたり話せなかったりするので、自分で『話せるモード』を作るために、無理やりキャラを作って演じた」、「結構、乱暴なやり方で『コミュニケーション能力』を身に着けていった」、など、「自力でコミュニケーションを切り開いていった」というような話。

「現在は「話せない」という症状は昔ほどないが、子供の頃から話したいのに話せなかったので、比較的話せるようなった今でもコミュニケーションに不全感や苦手意識を覚えている」、「今にも人に頼るのが苦手」、など、「見た目の話せる/話せない、という視点では解決できない問題がある」という話。

上に書いたような話は、今までに僕が話を伺ったことのある方たちの体験談を思い出しながら、僕が書き連ねたものなので、もしかしたら、語って下さった人たちの真意からは離れている部分もあるかもしれませんが、こういった話は、僕自身の吃音の体験と照らし合わせても、「共感できそうな体験が多いな」と感じることが多いです。

そういうわけで、「吃音の体験とどこか通じるものがある」一方で、「現場では、支援者の人たちが、吃音以上に『どうしていいかわからない』と感じている人が多そう」というのが、僕が、場面緘黙について漠然と抱いている印象でした。

もう一つ、僕が、場面緘黙について抱いている印象に、吃音の特別支援教育に長らくかかわられている先生から伺ったお話しがあります。去年、一度、講演を聞いただけなので「うる覚え」なのですが、吃音を持つ子供への支援についての講演の最中、自身の場面緘黙当事者としての体験談を語られていて、その際、子供の頃の自分に、「だまっていて『も』いいんだよ」という言葉を伝えたかった、というお話をされていました。

「話せるようになること」を目的とした支援「だけ」ではない支援が「ありうる」、というのは、吃音を持つ子供への支援について考える上でも重要な視点なのではないか、と僕は思っています。僕自身の言葉の教室での体験を振り返っても、「結果としての吃音症状の軽減」や「話すことへの投機的な態度を高めること」を目的とした支援だけではない支援が、子供の頃の僕にとって、とても有意義だったような気がしています。

 

 今回、勉強会を担当してくださった角田さん自身は、場面緘黙の当事者ではないそうですが、臨床心理士の資格を有されていて、場面緘黙をもつ子供たちへの支援をされているそうです。講演の内容は、角田さんご自身の臨床知に基づいた内容というよりも、場面緘黙についての医学的な解説が中心だったかと思います。

 吃音勉強会では、専門知を学びつつも、一方的に専門知を受け入れるだけではなくて、当事者としての経験や支援者としての経験など、参加者一人一人が「自分自身の経験」と照らし合わせて、「専門知ではこう言われているけれども、自分は、そのような説明だと、何かが損なわれている感じがする」というような「違和感を共有する時間」を大事にしています。そして、「では、自分にとって、納得のいく言葉やアプローチとは何なのだろうか」と、参加者一人一人が「自分が納得や共感できる言葉やアプローチを探索的に探し出していくこと」を目指しています。

 今回の勉強会では、いつもの言友会の仲間たちの他に、場面緘黙の当事者として発信をされている方、場面緘黙の臨床をされている方など、色々な立場の方が、参加をされていました。報告文や感想文でも、たくさんの意見が出ているかと思いますが、勉強会の最中も、ちょっと話しただけで、「医学的にはそのような説明をするかもしれないが、違う見方もできるのではないか」「それは量的な研究が進めば今後明らかにされる問題というよりも、そもそものパラダイムの設定そのものに起因する問題なのではないか」「その言説はスティグマを悪化させうる言説にならないか」「その言説は、科学的な正しさに裏付けられている言説というよりも、責任を当事者や家族に過度に帰属させないための、政治的な意味合いの強い言説ではないか」などなど、僕も含めて、色々な人から、様々な意見がすぐに出る活発な勉強会だったと思います。

もうすこし時間を長くとっていれば、深い話し合いができたかとも思いますが、「場面緘黙について探索的に考える」という最初の最初のほんのきっかけにはなる勉強会だったのかなぁ、と勝手に思っています。

僕自身の感想としましては、先に書いた「『吃音の体験とどこか通じるものがある』一方で、『現場では、支援者の人たちが、吃音以上に『どうしていいかわからない』と感じている人が多そう』という」僕の勝手な印象は、今回の勉強会に参加をして、ますます強くなりました。

また、「医学的な解説を中心とした講義だった」ということもあるとは思うのですが、「場面緘黙の世界は、当事者が担っている役割が、まだまだかなり大きそうだな」とも感じました。これから、場面緘黙の世界で、当事者からの言葉がどのように立ち上がっていくのか。「専門家と当事者が連携をする」という方向性だけではなくて、「吃音の当事者コミュニティが蓄積しつつある言葉や知恵を、場面緘黙の当事者コミュニティとつないでいく(あるいは、その逆も)」、という「クロス・ディスアビリティ」の方向性も、当然、ありうるだろうと思います。

 今後とも、ぜひ、場面緘黙のコミュニティの人たちと吃音のコミュティの間で、経験や知恵を共有できれば、と思っています。

担当された角田さん、そして、参加された皆さん、ありがとうございました。